開高健、山口瞳、石田衣良、林真理子、作家になったコピーライター。

ふた昔ほど前のこと。

コピーライターという職業には、広告を作りたい人だけではなく、文士くずれの人がたくさん集まって来ていました。

文章を書くことを生業としたい。

でも作家にはそう簡単になれない。

そんな人たちが、とりあえず書くことで生活できる仕事として、コピーライターを選んでいたのです。

私もどちらかというと、そちら側。

だからマーケティングやグラフィック・デザインといった広告の方法論はもちろん大切なのですが、どちらかというと表現に重きを置くコピーライターの方が多かったように思います。

そもそも単一民族で、当時は総中流国家だった日本に、マーケティングなんて不要。

大きな声で「右向け!」と言ったら、みんな右向く従順な人たちを、わざわざ細分化して、ターゲットを狭める必要なんて、微塵もありませんでした(めちゃくちゃ乱暴な見解ですが、大体そんな時代だったと思います)。

だから、人の目を引く気の利いたキャッチフレーズが書ければ、文士くずれでもなんとかなった。

広告を作りたいコピーライターが目指すのは、クリエイティブディレクター。

文士くずれのコピーライターが目指すのは、作家。

そして時代は、気の利いたキャッチフレーズではなく、マーケティングを踏まえたキャッチフレーズを求めるようになっていき、結局文士くずれのコピーライターは、自滅していくのでした。

それでも中には、コピーライターとしても、作家としても、スゴイ人たちもいたのです。

というわけで、コピーライターから作家になった人たち。

開高健

壽屋宣伝部(現サントリー)に広告文案家として勤めていた1958年に芥川賞を受賞。1967年生まれの私には、広告も、小説もリアルタイムではないのでピンときませんでしたが、昨年、茅ヶ崎市にある「開高健記念館」に行き、初めて開高健の文章に正面から向き合うことに。彼が残した日本語の力強さに、襟を正す思いでした。

主な受賞歴:芥川龍之介賞(1958年)/毎日出版文化賞(1968年)/川端康成文学賞(1979年)/菊池寛賞(1981年)/日本文学大賞(1987年)〈wikiより引用〉

 

トップの画像は、開高健による「出版人・マグナカルタ九章」です。私は出版人ではありませんが、物書きの心得として、自分の机の前に掲げています。

山口瞳

1958年、開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。〈wikiより引用〉

芥川賞受賞作家と直木賞受賞作家が一緒にコピーを書いているという、すごい時代があったのです。

林真理子

1981年(昭和56年)、西友ストア向け広告コピー「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる。」でTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞を受賞。
1982年(昭和57年)、エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を発表して、エッセイストとしてデビュー。〈wikiより引用〉

20代の頃に何冊か小説を読みましたが、もてないな女性の気持ちに、男ながら、ものすごく共感しました。

石田衣良

大学卒業後はフリーター生活を送っていたが、母親の他界をきっかけに就職を決意し、広告制作プロダクション・広告代理店にコピーライターとして勤務した後、33歳の時にフリーのコピーライターとなる。
36歳の時に7歳の頃からの夢だった小説家になることを決意し、数々の新人賞に応募。1997年、それまで応募したことのなかったミステリーの賞に応募したところ、第36回オール讀物推理小説新人賞を受賞。そのデビュー作が「池袋ウエストゲートパーク」である。〈wikiより引用〉

彼が広告制作プロダクション時代、同じプロダクションで仕事をしていたのですが、チームもフロアも違ったので、全然知りませんでした。

中島らも

小説家、劇作家、随筆家、広告プランナー、放送作家、ラジオパーソナリティ、ミュージシャン。〈中略〉広告代理店社員のコピーライターとしてキャリアをスタートさせ、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを主宰し、俳優としても活動したほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長を自称した。〈wikiより引用〉

多才すぎて、作家の枠におさまりません。酒・薬に溺れていたその奔放さに、嫉妬心もあって、生前はあまり好きではなかったのですが、ものすごいクリエイティブな人だったんだなぁと再認識。早世を悔やみます。

原田宗典

1977年に、岡山操山高等学校より指定校推薦で早稲田大学第一文学部に入学する。留年中にコピーライターの養成講座に通い、岩永嘉弘と出会う。卒業後、岩永の主宰する事務所に入社、コピーライターとなる。
1984年、『おまえと暮らせない』が第8回すばる文学賞に佳作入選する。〈wikiより引用〉

2013年、覚醒剤と大麻で逮捕。2015年、執筆活動再開。『優しくって少し ばか』な小説家です。

内田 康夫

西村京太郎、山村美紗とともに、旅情ミステリー作家の代表的人物として知られる。代表作に『浅見光彦シリーズ』『岡部警部シリーズ』『信濃のコロンボシリーズ』など。〈wikiより引用〉

浅見光彦シリーズは結構読んだかも。御年81歳。まだご存命でした。ちなみに西村京太郎は現在85歳、いまだ健在です。

奥田英朗

プランナー、コピーライター、構成作家を経て1997年『ウランバーナの森』でデビュー。〈中略〉1999年、『最悪』が「このミステリーがすごい!」2000年版で第7位に、2001年、『邪魔』が「このミステリーがすごい!」2002年版で第2位にランクインする。2004年に代表作である精神科医・伊良部シリーズの第2作目『空中ブランコ』で第131回直木賞を受賞した。〈wikiより引用〉

ちょうど2000年あたりから、「このミス」海外編のクオリティが高すぎて、国内編が見劣りし、読み逃してました。
ちなみに2000年版「このミス」国内編の1位は永遠の仔(天童荒太)。これは面白かった。でも、海外編がすご過ぎる。1位:極大射程(スティーヴン・ハンター)、2位:ボーン・コレクター(ジェフリー・ディーヴァー)、3位:夏草の記憶(トマス・H・クック)。3人とも、一時期どっぷりはまってました。

では、グラフィック・デザイナーの“上がり”は?

かつては「デザイナー」と名のつく職業の頂点に君臨していたグラフィック・デザイナー。そして、その先にあるのは芸術家。なのですが、そこにたどりつくためには、小説家よりも高い壁がそびえ立っています。

グラフィック・デザイナーから芸術家になった人。

横尾忠則

神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。〈wikiより引用〉

彼のデザインは、天と直結しています。絶対にしらふではたどり着けない、彼岸の世界。圧倒的すぎます。

日比野克彦

一応、現代美術家ではあるのですが、彼の作品にはアメリカのポップアートの影響が見え過ぎて、グラフィックを超えていない気がします。

実は最強。グラフィック・デザイナーから作家になった人。

難解な上に大ボリュームの小説を一気に読ませてしまう、もしかしたら最強かもしれない小説家は、実はグラフィック・デザイナーでした。

京極夏彦

日本の小説家、妖怪研究家、アートディレクター。世界妖怪協会・世界妖怪会議評議員(肝煎)、関東水木会会員、東アジア恠異学会会員。「怪談之怪」発起人の一人。北海道小樽市出身。北海道倶知安高等学校卒業、専修学校桑沢デザイン研究所中退。代表作に『百鬼夜行シリーズ』、『巷説百物語シリーズ』など。株式会社大沢オフィス所属。公式サイト「大極宮」も参照。〈wikiより引用〉

「邪魅の雫」から10年。なかなか続きが出ない・・・

 

 

今ではインターネットでいくらでも、自分の作品を発表できる時代。

私も何か書いてみよう!

と思い、noteを使い始めてみました。

書き上げたらブログでお知らせするので、読んでいただければ幸いです。

って、まだ書き始めてもいないのですが・・・。

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