トランプは世界をどう変えるのか。私が愛したアメリカの友人。
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憧れのアメリカは何処へ。
60年代から70年代にかけて、ファッション、アート、音楽、映画、そして広告に至るまで、すべての文化はアメリカが最先端で、憧れで、お手本でした。
グラフィック・デザイナーはアンディ・ウォーホルを代表とするポップアートやロバート・メイプルソープのポートレートに影響を受け、コピーライターはチャンドラーやハメットに影響を受け、それを日本向けに模倣することで、昭和の広告の黎明期は支えられています。
日本が高度経済成長を遂げている頃、ベトナム戦争の敗戦によって病んでいくアメリカ。そこにかつての強いアメリカを体現する、不動産王ドナルド・トランプ登場。アメリカン・ドリームの象徴のようなトランプ・タワーをドーンと建設します。
それもつかの間、日本がバブルの波に乗って経済大国へと成長し、ニューヨークのビルを次々買収していくのとは裏腹に、ブラックマンデーで失速したアメリカは、かつての輝きをすっかり失ってしまいました。
今の若い人たちにとって、アメリカは憧れの国でもなんでもありません。
戦後教育も遠くなり、アメリカに敗戦した属国意識ももはやありません。
ヒラリーが大統領になろうが、トランプが大統領になろうが、アメリカがどうなろうが関係ない。
私は座間キャンプのそばに住んでいるのですが、アメリカ人と関わることはまったくありません。
娘が今年1か月カリフォルニアに留学していましたが、アメリカすげ〜っていう話もありません。
若い頃は憧れていましたが、いまだ行ったことがありません。
そんな私に、2人のアメリカ人の友人がいました。
2人とも横浜で飲み歩いていた20代の頃に出会った飲み友達。
私にとってのアメリカといえば、国ではなく、その2人のアメリカ人なのです。
ミッチが愛したヨコハマ・マリファナ’92
横浜・関内、相生町の裏通り、横浜マハラジャのすぐそば。B.Bというバーで知り合った自称留学生のミッチは、トムクルーズとチャーリーシーンを足して2で割ったような整った顔立ちをしていて、お姉さんはミスシカゴだかサンフランシスコだと言って自慢していました。
日本語はペラペラでした。
ミッチは寿司が大好物で、3日に1度は中郵便局の隣にある元禄寿司に通い、寿司の中でも一番好きなイカを、いつも食べていました。
安くて旨い名店だったのですが、ご主人が若くして亡くなってしまい、今では奥さんが後を継いでやっているそうです。
ある日ミッチは、留学生仲間の外交官の息子と一緒にマリファナを吸っているのがバレて、アメリカへ強制送還されてしまいます。
もう二度と会うこともないと思い、1年が過ぎ、ミッチのことなんてすっかり忘れてしまっていた頃、B.Bに行くと、にこにこ笑いながらビールを飲んでいるミッチがカウンターに座っていました。
本人が語るところによると、アメリカに帰ってからアラスカに渡ってシャケ漁をしていたそうです。
アメリカではシャケの卵は全部捨ててしまうので、毎日新鮮なイクラが食べ放題だったと、嬉しそうに話してくれました。
それから、ミッチは週に1回度、B.Bにやってきました。私は毎日B.Bに通っていたので、来るたび一緒に、朝まで飲んでいました。
ミッチは、山谷、西成と並ぶ日本3大ドヤ街、寿町にあるワンルームマンションに住んでいました。
一度だけ遊びに行ったことがあるのですが、韓国人オーナーが経営している、不法滞在外国人向けの薄汚いマンションで、家賃は1日3,000円の日払い。三畳一間に小さな流しとガスコンロがあるだけ。バス・トイレなし。
AIDSのタイ人女性が部屋に客を連れ込んで売春していたり、日本に暮らす不良外人の巣窟でした。
ミッチが最初に留学生として日本に来ていた時は、英会話教室の講師のバイトをしていたのですが、2度目の訪日では、ペンキ塗りの仕事をしていました。
ペンキを吸うと頭がおかしくなっちゃうから気をつけないといけない。マリファナを吸ったほうが全然身体にいいよ。
アメリカ人にとってマリファナは欠かせないもので、特にパーティでは絶対に必要なんだ。
マリファナはみんなのものだから、持っている人はみんなに振る舞って一緒に吸って楽しまなくちゃ。
(ミッチ語録より)
マリファナで強制送還されたにもかかわらず、マリファナ好きはまったく変わらず、しかもみんなで吸うのが楽しいといって、私にもよくすすめてきました。
しばらくしてミッチは、ハワイに土地を買ったので、ピアノ教師をしている10歳年上の日本人の彼女と移り住むといい出しました。
ハワイの土地は日本の土地より安いから、買ったらどうだとすすめられたのですが、当時はあまりリアリティがなかったので考えもしませんでした。今では、お金を貯めて、ハワイに移り住みたいというのも、将来の選択肢のひとつになっています。
その後もず〜っとB.Bで会い続け、一緒に飲み続けていました。
ピアノ教師には、ハワイ行きを断られていました。
そんなミッチがふっと顔を出さなくなり、“しばらくB.Bであわないなぁ”と思うようになり、数ヶ月後にB.Bが潰れ・・・あっという間に24年が経ってしまいました。
きっと今頃真っ青なハワイの空の下で、真っ青なハワイの海を眺めながら、マリファナをふかして幸せに暮らしているんだろうなぁと思います。
1990年。横浜・曙町から、トニーは戦場へ行った。
今ではファッションヘルス街になっている曙町にあった、トム・ソーヤというブルーズバー。
その店の常連だったトニーは、レイ・パーカーJrのようなニヒルな笑顔が魅力的な、身長約五・五フィート、黒人にしては小柄なアメリカ人でした。
ギターが上手かったので、店が顔見知りだけになると、たまに演奏を聞かせてくれました。
レパートリーは“ジョニー・B・グッド”と“ジェイルハウス・ロック”。
ギターほどではありませんが、日本語も上手でした。
トニーは横須賀の海軍基地に勤務しているネイビーで、日本人の彼女は美容師をやっていて、休みの前の月曜日だけトムソーヤに遊びに来ていました。
「たまには横須賀に、飲みに行きませんか」
毎日のようにお店で会っていて、すっかり仲良くなっていたトニーからの誘いを受け、横須賀へ飲みに行くことに。
黄金町駅から京急で汐入へ。そして横須賀・ドブ板通りデビュー。
トニーに連れられていった店は、当時の日本にはまだあまり浸透していなかったキャッシュ・オン・デリバリーのバーで、支払いはドルと円。その日の為替レートで円の価格が決められていました。
客も店員も全員黒人。日本人は僕だけ。外国人の気持ちを初めて味わいました。
その頃流行りはじめたヒップホップが鳴り響く、アメリカ100%の空間で飲むバドワイザーは、いつも飲んでいるバドワイザーと変わらず薄くって、ヒップホップはうるさいだけでしたが、日本にいながら体験できるネイティブなアメリカに、かなりテンションが上がっていたのを覚えています。
トニーは私にとって初めての、アメリカの友人でした。
また横須賀で飲みましょうといいながら、横須賀へは行けずじまいだったけれど、トムソーヤでは毎日のように顔を会わせ、酒を飲み交わしていました。
そして1991年1月、横浜の空に戦闘機がラインを描く。
テレビの向こうで湾岸戦争がはじまり、トニーは彼女を日本に残して、戦争に行ってしまいました。
2016年。2人はいずこへ。
というわけで、2人には以来会っていないし、どこで何をしているのかもわかりません。
このブログを見て心当たりがある方は、ぜひ連絡をいただければと思います。