スポーツが嫌いで何が悪い。スポーツは身体に良いなんて戯言です。

「WOW イチローが嫌いだ」
「限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」
「自分に嘘がつけなくなるから」
「努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」
「どんな逆風もチャンスに見えてくるから」
トヨタのCMより

私はスポーツが嫌いだ。

「幼稚園の運動会でう○こをもらしたから」

「小学生の頃、誰よりも鈍くてとろくて足が遅い上、誰よりも背が高かったため、運動会で悪目立ちして、音楽の先生から知恵遅れといわれたから」

「中学生の頃、体育の授業でどんなにがんばっても、体育の教師からさぼっているといわれ、テストでクラス1番の点数をとっても5段階評価で“2”以上もらえなかったから(しかも3年間)」

「高校生の頃、進学校に行ったのに、脳みそが筋肉の体育の教師が幅を利かしていたから」

私はもの心ついた頃から徹底的に運動オンチだ。足もめっぽう遅い。
歩いている方がよっぽど速い。

ところが、小さな頃から背だけは高かった。
幼稚園の頃は小学生に見られ、小学生の頃は中学生に見られ、中学生の頃は成人に見られていた。
高校に入学した時点で182cm。そこで成長は止まった。

背の高いやつは、体格的に有利なので、基本的にみんな足が速い。
中には遅いやつもいるが、そういうやつはたいてい太っていて、足の遅さとルックスとのギャップがない。

ところが私はさほど太っていなかったので、走る姿がスローモーションにしか見えず、そのあまりの遅さにふざけているとしか思ってもらえなかった。

もともとどんくさいという事が大きな原因なのだけれど、ではどうしたら上手にできるようになるのかを、正しく教えてくれる人はどこにもいなかった。

体育の教師なんて、所詮筋肉バカ。

走れ、跳べ、努力だ、根性だ。

そんなことでスポーツが上達するわけがない。

そんな私でも、野球と水泳とボーリングだけは人並みにできる。
というのも、小学生の頃からマニュアルが大好きで、その3競技に関しては入門書を熟読したから。

体格に恵まれながらも、指導者に恵まれなかったがために、「スポーツは身体が大きい方が圧倒的に有利」という事に気づいたときには、スポーツに対して嫌悪感しか持たなくなってしまっていた。

独りで本を読みながら想像の世界に思いを馳せたり、ドラクエでさんざん経験値を稼いだ後に、ボスを一撃で倒したりする方が、スポーツよりもよっぽど楽しい時間を過ごせるのだ。

 

私は運動会が大嫌いだ。

幼稚園の運動会では、お遊戯の最中にお腹が痛くなり、でも輪の中から出るわけにはいかないという責任感の強さが勝り、そのまま大の方を漏らしてしまい、後ろの女の子が気づいて「○○○漏らしてる」と大きな声で叫ばれ、園児のみならず運動会を見に来ていたその家族たちの前で、生涯忘れられないトラウマを植え付けられることになる。

小学校の運動会では、ダンスの際に周りの振り付けに付いていけず、みんながしゃがむところで一人だけ立ったまま。
みんなが右を向けば私は正面を向き、何をやってもワンテンポ遅れ、知恵遅れとまで言われていた。

中学校の運動会は、運動だけが取り柄のヤンキーの祭典。

騎馬戦は、人なのに馬をやらされる屈辱のみ。背が高いので上になることは絶対にない。しかも、暴力による闘争心なんて持ち合わせておらず、戦なんて関わりたくもないのに、学校公認で、ヤンキーがここぞとばかりに殴る、蹴るの無礼講。その中へノーガードで飛び込んで行かなければいけない。
その上、上半身裸で汗と埃にまみれ、顔といい、腕といい、足といい、汗でベタベタな肌に砂埃がざらざらとへばりつき、今すぐにでも風呂に入ってシャワーを浴びてさっぱりせずにはいられない、不快極まりない状態で、競技が終わった後も一日中過ごさなくてはならない。

綱引きに至っては、自分の力がどれだけ勝敗に関わっているのか全くわからないのに、というより、全く関わっていないにもかかわらず、必死になって引っ張っているのが滑稽でしょうがない。
というのも、自分の力がどれだけ必要とされているのかを試すため、みんなが一生懸命踏ん張って引っ張っている時に、綱にぶら下がってみたことがある。
当然一気に相手側に引っ張っていかれると思いきや、私の踏ん張りなんて屁の突っ張りほどでもなく、何事もなく均衡が保たれている。
じゃあ、引っ張っている分は貢献できていないとしても、ぶら下がっている分重さがかかっているので、体重で均衡しているのだという結論に至ったものの、綱から手を離してみるという暴挙がどれほど影響を及ぼすのか、パッと手を離したその瞬間、綱は僕たちの方に大きく引っ張られ、終了のピストルがパーンと鳴った。
一人くらい力を入れていなかったところで、結局は引くタイミングにどれだけの人が同時にあわせられるかというだけのことなのだ。

玉入れにしても借り物競争にしても、あんなものそもそも運動じゃない。ただのレクリエーション。

パン食い競争は賤しい、浅ましい見せ物。

ダンスや踊りの類は、はじめの頃に話したとおり、できない奴は、ただただ苦痛と屈辱を味わうだけ。

さらにあの、ダンス・踊りカテゴリーの中でもメインイベント扱いになっている組体操
砂まみれの裸足で上に乗られ、ピラミッドでは下の奴がペシャンコにされ、大怪我にもつながっている。
そもそも、一糸乱れることなくきれいに揃って同じ動きをする姿は、北朝鮮の全体主義、軍国主義のマスゲームそのもの。
知らず知らずのうちに個性をスポイルされているにもかかわらず、それをやらされていることに喜び、見る側も楽しんでいる姿に、薄ら恐ろしい感情を覚えずにはいられない。

そして学年対抗リレー。足の速さのヒエラルキーで一番上にいる奴らの檜舞台。
間違っても自分が出ることはなく、足が速い奴らだけが大いにもてはやされる。
しかも毎年その顔ぶれはほとんど変わることがない。
ということは、努力したところで出られるものではない、非常に不公平なものなのだ。
絶対音感競争とか、動体視力競争とか、もっと単純に、背の高さ競争とか親指の長さ競争とかと構造は一緒だ。
ただイベント性が低いか高いかの差だけで、ほかには何の取り柄がなくも、生まれつき足が速いだけで主役になれる。
しかも団体競技という隠れ蓑に包むことによって、負けたとしても個人に責任が及ぶことがないシステムになっている。
転んでビリになったりしたら、ブーイングで向かえてしかるべきところを、なぜか拍手で向かえいれられる。
そう、言葉通り、どう転んでももてはやされるようになっているのだ。
そりゃあ、速い奴らには奴らなりに、負けられなかったり、少しでも早く走りたかったりといったできる奴らなりの事情はあるのだろうけれど、そもそもエントリーすらできない人間から見れば、贅沢な悩みである。

 

私はオリンピックが大嫌いだ。

運動会の延長線上にあるオリンピック。
私が好きなわけがない。

アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指した

というオリンピックの精神は、今となってはすっかり出場国のエゴとスポンサーの利権に汚されているにもかかわらず、きれいごとばかり。

アスリートだって、表舞台ではきれいごとばかりいっていても、選手村ではモラルもへったくれもなくヤリまくっているわけで、それが悪いとはいわないけれど、思っているほどストイックな世界ではないようだったり、そもそも社会的に何の役に立つのだろうと思ったりしてしまう。

2020東京オリンピックも、純粋にイベントを楽しむことよりも、確実に外国人が増える、その先の日本がどうなるのだろうという不安しかない。

もうひとつ。
人間の身体能力の限界を競うのなら、ドーピングありにしちゃえば良いのに。
ドーピングが身体に悪いというのなら、着地で腰を痛めるし、怪我するし、女性運動選手は月経不順になるし、そもそもスポーツは身体に悪い。
どうせなら圧倒的に改造された身体能力を見たい。

格闘技の世界では、常人離れした筋肉を付けるために、副作用があるステロイドを使用することがある。
K-1の王者だったアンディ・フグも、命と引き換えにモンキー・ステロイドを使用して、最強の身体を手に入れたという話も・・・。

モラルもルールもトレーニング環境も国によって違うのだから、やりたい人はやらせれば良いのに。

北朝鮮の選手は、金メダルをとったら一生安泰、負けたら炭坑送り(真偽は定かではないが)。

ドーピングよりよっぽど命がけなのだ。

 

スポーツは身体に悪い。

活性酸素が大量に発生する。

紫外線を大量に浴びる。

ストレスにさらされる。

実は成人病の予防にはならない。

生体にとって不自然な行為でしかない。

スポーツをすることによって、早死にしたり、突然死したり。
健康のためにやっているにもかかわらず、単に身体にムリをさせているだけ。
健康に対しては百害あってほんのちょっとの理しかなし。

本格的にスポーツをやっている人って、ほとんどがヒジやヒザ、腰や首、肩に疾患を持っていて、整体や鍼灸に行ったり、マッサージを受けたりして、痛みを抑えている。

私はまったくスポーツをやってこなかったので、身体にまったく悪いところがない。

肩こりも、関節が痛くなる事もないし、長時間座って腰が痛くなることもない。

整体、鍼灸、マッサージ不要。

超健康体。

趣味で、好きでやっているならそれはかまわないけれど、心身の健康のためと嘘をついて、無理矢理やらせないで欲しい。

スポーツなんて無理してやらない方が、健康的に過ごせるのは、私が身を以て証明している。

 

とにかく私はスポーツが嫌いだ。

運動オンチでスポーツが大の苦手。

中学は吹奏楽部、高校は軽音、大学は演劇。
まったくスポーツに関わりのない人生を送ってきた。

なのにムダに体格が良い。

だから初めて出会う人のほとんどが、

「なにかスポーツしてたんですか」

と聞いてくる。

「何にもしてません」

というと、

「もったいない」

といわれる。

そのたびスポーツがキライになって行く。

「本は年に何冊くらい読みますか」

「映画は年に何本見ますか」

「CDは年に何枚買いますか」

と聞かれて、

読まない、見ない、買わない、と答えて、「もったいない」と言われたらイラっとするはず。

スポーツはあくまで趣味。

好きなら勝手にやれば良い。

スポーツをやらなくてはいけないという、実はなんの理由もない価値観の押しつけはやめて欲しい。

スポーツ偏重は、現代社会における完全なる差別だ。

私はスポーツをするくらいなら、本を読みたい。
映画を見たい。音楽を聴いていたい。文章を書いていたい。

 

 

 

スポーツが嫌いだと言えないあなたへ。

スポーツは、体に悪く、頭にも悪いドラッグのようなもの(ランナーズハイなんてその最たるものです)。

なんの根拠もなくスポーツを勧めてくるスポーツ教の信者たちに洗脳されないように、心を強く持ってくださいね。

1 個のコメント

  • 全く、同感です。私の周辺にも「スポーツは素晴らしい」「運動は健康に良い」という、まやかしのスポーツ信仰思想が蔓延しておりました。しかし、成長するに従い、その欺瞞性・虚構性が次第に解ってきました。

    1 身体に悪い

    スポーツマンは健康であるという図式は、私が見聞きする事実の前に崩壊しました。叔父の同級生で水泳選手だったKさんは、白血病で亡くなりましたが、死の直前に親しい人の自宅を訪ねて挨拶したそうです。死期を悟っていたのかもしれません。また、白血病の一因は、過激な運動による活性酸素の発生が関係しているのかもしれません。また、高校時代に健康診断で「心肥大」を指摘されたのは、いずれも陸上部やサッカー部の者で俊足でした。少年野球によるスポーツ肩、肘の障害など成長期における過剰な運動は、骨や筋肉、関節にも悪影響を及ぼします。骨折、腱断裂、打撲そして甚だしきは、脊椎や頸椎の損傷で車いすや寝たきりの生活を余儀なくされることもあります。

    2 心に悪い

    これは、特にタイムや得点など競技性を伴うもので顕著です。またクラスの中で限られた選手を選出する際にも、差別・選別の論理が働き、選考から洩れた者は、いわれなき劣等感に苛まれます。
    特に、どう努力しても走るのが遅い、或いは身体的な障害や疾病で運動能力が生来的に低かったり、無理な運動を禁じられている者は、「低格者」のレッテルを貼られ、競技の場自体から排除をされ、更なる劣等感・疎外感に打ちひしがれるのです。また、団体競技やクラス対抗では、自らのミスや順位の低さが集団の成績に反映され、不必要なプレッシャーを感じたり、非難されたりと参加者にとっても心理的に悪影響を与えます。時には優秀な選手でさえ、あの円谷幸吉選手のように自殺へと追い込まれてしまうのです。死に至らなくとも、スポーツ選考で進学したり、実業団入りした人が、成績が低迷したり、身体的に運動ができなくなってしまった時の敗北感は、在学・在職すら許されない危機さえあり、深刻です。

    3 そもそも、得点や記録を求めることには何の意味もない

    私は、体育・人間の運動能力は、自身を守ったり、日常生活に必要な運動能力を持てれば十分であり、それ以上の者を求める必要はないと考えています。野球やサッカーも、マラソン大会もやりたい者だけが自由参加すれば良く、それを全員に強いることは、学校のカリキュラムとは言え不当だと考えています。記録や得点も然りです。日常生活では、時間に間に合うよう走ったり、荷物を持ち上げるに足る力があれば十分なのであって、カールルイスの如き俊足も、ウェイトリフティングの選手のような怪力も必要はありません。万一、そんな能力があっても、ハイスペックのレーシングカーが一般公道を、性能を持て余しながら走るようなもので、宝の持ち腐れです。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です