コピーライターなら知っておいて欲しい。日本のクリエイティブシーンは西尾忠久から始まった。
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西尾忠久が、今のクリエイティブシーンを切り拓いた。
1960年代、黎明期の広告業界、
コピーライターが広告文案家と呼ばれていた時代。
西尾忠久(敬称略)という日本のクリエイティブシーン自体をクリエイトしたコピーライターが登場しました。
三洋電機の宣伝部、日本デザインセンターを経て、1964年に広告制作プロダクション、アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーを設立。
有名なDDBのフォルクスワーゲンのプロモーションをはじめ、アメリカのクリエイティブシーンを紹介しながら、その手法を取り入れた広告を制作し続けました。
コンセプトからマーケティングまで、いまでは当たり前のように語られている概念を日本の広告業界にもたらしたのも西尾忠久の功績。
5年前に亡くなられてしまいましたが、今の日本の広告シーン、クリエイティブシーンの文脈のほとんどは、突き詰めていくと西尾忠久にたどり着きます。
私が伝え聞いた、思い出の西尾忠久。
その1
コピーライターだった私の父はアド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーで仕事をしていたことがあり、西尾忠久を師と仰いでいました。
そんな父から、子供の頃からずっと、西尾忠久の話をよく聞かされていました。
アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーの社長だった西尾忠久は社員にバイトを公認していて、バイトの仕事の打ち合わせに、社内の会議室を開放していたそうです。打ち合わせの相手に、
「うちは給料が安いから、どんどん仕事を出してあげてください」
と、常々いっていたとか。
四十数年前、父の打ち合わせが終わるのを待っていて、その会議室でお漏らしをしてしまったのは、まだ幼稚園児だった私です。
その2
好奇心旺盛&こだわりがものすごく強い人で、気になると徹底的に調べないと気が済まない。
ボルボというクルマがすごい、と思ったら、なんですごいのかを知るためにスウェーデンの本社まで調べに行って本を書いてしまう。
ヴィトンをはじめ、世界の一流ブランドのこだわりが気になりだすと、やはり徹底的に調べて本にしてしまう。
晩年は、鬼平犯科帳を徹底的に研究していました。
そんなこんなで、編集・翻訳を合わせると70冊以上の本を出版しています。
子供の頃、西尾忠久訳『アメリカのユダヤ人』という本が父の本棚に何冊も並んでいたのですが、当時は思議に思ったものです。
その3
コピーライターなのだから当たり前ではあるのですが、その中においても名文家で、お手本のような文章を書く人でした。
私の手元には、父から名文の見本として譲り受けた、西尾忠久の手による書簡(印刷物ですが)があります。
西尾忠久の息子さんは、高校生の頃に自殺しています。そのお別れの会への案内状としてしたためられた、西尾忠久の、息子への想い。今でも仕事机の引き出しの奥に、大切に保管してあります。
「赤坂4丁目8番」。これもキャッチフレーズです。
2003年、西尾忠久は、その広告史への多大な貢献によって、土屋耕一、開高健、梶祐輔というレジェンドに次いで、TCCの殿堂入りを果たしています。
そんな西尾忠久が書いたコピーで、いまでも使われているのが
「赤坂4丁目8番」
1970年、東急エージェンシーの本社が赤坂に移った際に、西尾忠久のアイデアによって掲げられたものです。
クライアントがタクシーで会社に訪ねてくる時に豊川稲荷の向かいというのがいいか虎屋の下というのがいいか赤坂4丁目8番というのがいいかといって当時の社長を説得したそうです。
街の目印となるように地番を掲げ、コミュニケーションを手伝うことによって、地域社会に貢献する。
それが「赤坂4丁目8番」の看板のコンセプトとなっています。
以来40年以上にわたって、東急エージェンシー本社に掲げられつづけ、青山通りの風景のひとつとなっています。
言葉でコミュニケーションをデザインする。
コピーライターの領分は、モノを売るためだけにあらず。
西尾忠久が切り拓いた、クリエイティブシーンは今いずこ。
webにももっと創造的な、広告の風を送り込みたいものです。