糸井重里と神田昌典の影響力が、コピーライターの分岐点だった。
コピーライターの中で一番の有名人は、間違いなく糸井重里。逆に、他のコピーライターを知っている人の方が少ないのではないでしょうか。 とはいっても、ここ数年の糸井重里のコピーって、ジブリ映画のコピーくらいしか知りません。 彼がプロデュースしている「ほぼ日手帳」の方が有名なくらい。 その糸井重里が、コピーライター業に引導を渡しました。
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糸井重里、コピーライターやめました。
「自分が薦めたい商品ならいい。でも、もっと改善できるはず、なんて思ってしまうと、納得して商品を語れない。だからコピーライターはやめました」
「エルメスにキャッチコピーはないですよね。よいコピーをつくることと、売れるものをつくることは別。よくないものをコピーで売るなんて、やめたほうがいい」
「お客さんは、何が欲しいのか、わかっていないことも多い。だから、つくり手から提示する。自分に問いかけ、売れるに決まっているものを探すんです」
昨年、そういって糸井重里がコピーライターをやめました。
私がコピーライターになった頃、テレビからは「お元気ですか〜」とローテンションで陽気な井上揚水が語りかけてきて(天皇崩御で「お元気ですか〜」はないだろうと、すぐに自粛になってしまいましたが)、“くうねるあそぶ”が時代を切り取ったコピーとして流行語になっていました。
その広告を作ったのが糸井重里です。
当時は、みんな糸井重里に憧れてコピーライターを目指し、宣伝会議のコピーライター養成講座に通って金色の鉛筆(笑点の座布団みたいなモノ。いいキャッチを一本書くと一本もらえる)を集めていました。私は父の仕事を受け継いでコピーライターになっているので、流行に乗ってコピーライターになりたいなんていっているミーハーな奴らは大キライでした。
実はコピーライターって、ミーハーじゃないとやってられない職業なんですが。
さらに、20代から30代までは、世の中を斜に構えて生きていたので、糸井重里なんぼのものと、アンチを決め込み、その流れでずっと大嫌いなクリエイターでした。
だから今さら辞めてもなんとも思わないのですが、コピーライターという職業にさんざん悪影響を与えてきて、ツバを履いて辞めていくのは勘弁してもらいたい。 そもそも法政大学で学生運動をやっていたのに、資本主義の先鋒とも言うべきコピーライターに転身。その後もファミコンや宮崎駿やモノポリーやバス釣りといった流行りものに、次から次へと乗っかっていく。
その時代のちょっと先を捉える能力が、実は天才的なのですが。
もともとコピーライターはモノを売ることが仕事なワケで、書いた人が売れてしまっては本末転倒。 コピーライターって、最終的なアウトプットがコピーになるというだけで、当然マーケティングをベースに、きちんと企画を練って広告を組み上げています。ところが、キャッチコピーだけを一人歩きさせ、キャッチ一本100万円という誤解を世間に与えてしまいました。
あなたは糸井重里の他に、コピーライターを知っていますか?
「くうねるあそぶ」って、何のコピーだか覚えていますか?
ただの糸井重里ディスりブログになってしまいました。
といっても神田昌典を持ち上げる布石ではありません。
よくも悪くも、糸井重里がナンバーワンのコピーライターには変わりはなく、神田昌典こそ、コピーライターの仇なのです。
糸井重里までのコピーライター。
60年代、アメリカからカウンターカルチャーとともに輸入されたマーケティング理論を元に、広告文案家からコピーライターへと変貌を遂げ、70年代、高度経済成長と共に成熟していく消費生活を裏方として支え、80年代、バブルとともに、職業ステイタスは絶頂を迎えます。
要は60年代から80年代にかけて、コピーライターは結構頑張ってたということ。
デザイナーやコピーライターは、自分が作った広告のことを“作品”と呼びます。この言い方、私は大キライなのですが、そのくらいこだわりを持って作っているわけで、“いま”という時代の中で、ほんの一瞬でも輝きを放つために、職人としてしのぎを削っていたのです。もちろん糸井重里もその一人。
ちなみに「くうねるあそぶ」は日産セフィーロのコピーです。
60年代から80年代初頭までは、新しい商品がどんどん誕生し、生活の中に入りはじめます。テレビ、洗濯機、自動車…新しい商品によって生まれ変わる生活を、消費者へ魅力的に伝えることでコピーは成立していました。ところが80年代からバブル絶頂期頃にかけて、生活の中にモノが飽和します。
もはやモノやサービス自体での差別化は、行き着くところまで行き着いてしまう。そして、時代の欲求はモノから離れ“心のゆたかさ”だとか“お客様満足度”といった、新しい価値観の創造へと移り変わる。 そこでコピーはどんどん商品の本質から離れていくわけです。
そして、糸井重里はそんな時代のちょっと先をうまく切り取り、バブルの絶頂期と共に、コピーライターの頂点へと、たどり着いてしまったわけです。
「おいしい生活」にしても、「くうねるあそぶ」にしても、いまではまったく響かないですよね。
糸井重里までのコピーライター。それは、モノがない時代に、新しいモノを魅力的に紹介し、モノが溢れる時代に、さらなる価値を付加する仕事だったのです。
さて、バブルがはじけると真っ先に削減されるのが広告費。どの起業も赤字転落で、経費で落とせなくなってしまった広告費は、経営を圧迫するだけ。そしてコピーライターも、頂点から一気に墜落していくことになります。
そもそもその頃に、どうして糸井重里はコピーライターをやめなかったんだろう。
神田昌典はコピーライターじゃないのだけれど。
15年ほど前のこと。
経営コンサルタントから、神田式で広告を作って欲しいという依頼を受けました。
神田式ってなんだ?
と聞くと、先生の本が出てるから読め、といわれたので、本屋に行くとピンクの本が積まれていて、胡散臭さ満載だったのですが、とりあえず買ってきて読みました。
なるほど。
彼がそこで語っていたのは、マス広告ではなく、個人商店のチラシ広告でした。そして、広告とはいえど、予算もスケールもまったく違う双方を同じ土俵にのせて、大手広告代理店の批判をしている。広告代理店に仕事を出せるほどの規模もなく、新聞折り込みチラシくらいしかやっていない中小以下の企業や個人商店に対して、代理店は宣伝費ぼったぐりだとか、イメージではものは売れないだとかいったようなことが書いてありました。
そりゃそうだ。どこの広告代理店が、郊外の商店街の八百屋の新聞折り込みチラシの制作を引き受けるんだ?
そもそも新聞折り込みチラシは印刷屋の仕事。百貨店や専門店のチラシ以外、今の会社に入るまで、新聞折り込みチラシのコピーってほとんどやったことがありませんでした。というのも、コピー代が安すぎるから。新聞折り込みチラシのコピーは、キャッチコピーが書けない五流コピーライターか、デザイナーが適当に書いていました。
とはいえ、郊外の商店街の八百屋でも、売れるチラシを作りたい。だから五流コピーライターや、素人のデザイナーにはまかせておけない。そこで神田昌典登場。近所のおばちゃんにモノを売り込む調子で、コピーライティングを誰でも書けるものに標準化してしまいます。
ちょうどその頃から、インターネットが生活の中に少しずつ入りはじめ、広告は不特定多数に発信するマス・マーケティングから、一人ひとりに合わせて発信するワン・トゥ・ワン・マーケティングへとシフトしていきます。
さらに、郊外の商店街の八百屋だけでなく、そこそこ大手の企業までもが、広告費削減のために自分たちでコピーを書こうとしはじめます。
ですが、リアルなコピーライターの作法で書こうとしたら、ちゃんと書けるようになるまでに、3年も4年もかかってしまう。 そこで登場するのが、誰でも書ける神田式コピーライティング。しかも、彼の方法論は洗練されていき、どんどん胡散臭さが払拭されていく。
ネットの登場によって、コミュニケーションはマスから個へと多様化。
景気の後退によって、キャッチコピーは誰でも書けるものへと標準化。
広告は商品価値を高めるためのものから、実売を伴うものへとSP化。
コピーライティング・スキルのニーズは、転げ落ちるように神田昌典に移り変わっていきます。
コピーライターは、時代に必要とされているのか、いないのか。
ルーツをたどると同じアメリカなのだけれど、リアルな広告制作現場とはまったく別の文脈で派生した、神田昌典的コピーライティング。
ネットビジネスや通信販売では有効なようで、相当稼いでいるコピーライターもいるようです。 ですが、そのスキルのすべては、あくまでネット上でのこと。当然ですがリアルではまったく使えません。
何故かというと、グラフィック・デザイナーと組んで仕事をしたという経験が、圧倒的に少ないから。広告はコピーだけでできているわけではなく、ビジュアルがあってはじめて機能します。
そしてもうひとつ。
ネット媒体の特性である、アクセスされた時点でターゲットがセグメントされている、検索キーワードを意識する必要がある、その場でアクション(クリック)させることを重視する、といった表現の制約に囚われて、即物的な表現のコピーしか書けない。新しいコミュニケーション・アプローチを生み出すための、コピーライター的発想力・文章力を磨いていません。
リアルより稼げるているなら、それはそれで良いのですが、それも、もはや飽和状態。ネット広告で見られるのは、型にはまったワンパターンのセールスコピーばかり。さらににわかコピーライターのせいで、なんで放置されているのかわからない、法を逸脱した誇大広告であふれかえっています。目立った訴訟が起きていないために判決実績がないだけで、法規制が入れば、かつて闇金・サラ金の広告が一斉に規制されたように、自滅するのも時間の問題。情報商材や高額塾の有効性が疑問視されている現在、もし規制が入ったら、既に誇大広告がネット上に証拠として残っているので、かたっぱしから過去にさかのぼって返金、なんてことも起こらないとも限りません。
では、リアル・コピーライターはどうなのかというと、40代以上のコピーライターなんて、代理店ではお荷物扱い。旧態依然とした広告論を振りかざし、時代遅れのボツコピーしか書けない。
企画書をキチンと書けるコピーライターも、実はそんなに多くない。私の師匠のクリエイティブディレクターはプレゼンテーションの達人だったので、企画書の書き方を教わることができたのですが、私世代以降(40代から下、ということはほとんどすべて)は、キャッチフレーズ命の人たちばかり。
宣伝会議のコピーライター養成講座って、私は父にコピーを教わっていたので知らないのですが、部下だったコピーライターの8割は通っていたと思います。そして、そのすべてのコピーライターが、まったく使いものになりませんでした。
これも糸井重里に影響を受けたコピーライターの、キャッチフレーズ偏重の弊害。今の広告制作現場では、作品なんて求められていません。ごく一部の広告で、消費者マインドをくすぐる気の利いたコピーが求められることもありますが、ほんの一部。だから絶滅の危機に瀕している。
広告から狭告へ。コピーライターが生き残るために。
糸井重里はコピーライターをやめてしまったし、神田昌典はそもそもコピーライターではない。
糸井重里をめざしたコピーライターも、神田昌典に倣ったコピーライターも、もはや、そのスキルだけでは生き残れません。 もっと柔軟に時代と向きあって、もっと誠実に商品と向きあって、新しい広告表現を創り出していかなければ、コピーライターという職業自体があふれる言葉の波に飲み込まれ、消えてしまうのも時間の問題なのです。
インターネットの普及と共に、不特定多数に向けた最大公約数的なメッセージを発信するというマス広告でのコミュニケーションは、かなり荒っぽいアプローチになってしまっていて、費用対効果も低い。 One-to-Oneまでターゲットを絞り込んで行き、多角的なアプローチで顧客を丁寧に拾い上げていくのが主流。
マス広告効果の低さと、マーケティング手段の進化によって、広告から狭告へとシフトしているのは間違いありません。
これからの課題は、双方をうまく融合した仕組みを構築することにあります。
なのですが、派手でわかりやすい広告に対して、狭告はあまりに地道すぎ。クリエイティブな人は、基本的にやりたがりません。そこにリアルコピーライターの限界があります。
かといって、経営コンサルタント的視点による最大公約数的ロジックでコピーを語ってしまっては、ロジックの向こう側から生みだされるクリエイティブには言及できない。
というわけで、広告と狭告を俯瞰で見ることができて、そこにオリジナルの言葉を紡ぎ出すことができるコピーライターって、リアルにも、ネットにも、見当たりません。
これをできるようにするのって実はメチャクチャ難しいんですが、その理由は別の記事で。
リアルからネットへ、ネットからリアルへ。
バッサリと時代を切り取りながらもロジカルに機能する言葉で一人ひとりへアプローチする、
広告×狭告
が、コピーライターが生き残るために取り組んでいかなければいけない大きな課題なのです。