グラフィックデザイナーは、佐藤可士和の夢を見るか?
プール冷えてます
史上最低の遊園地
hungry?
ペプシマン
Lafolet
1980年代から90年代にかけて、すべてのクリエイターは大貫卓也を目指していました。
彼のクリエイティブは、カッコ良くて、ポップで、楽しくて、斬新でした。
そして、彼の遺伝子を継ぐグラフィックデザイナーとして彗星の如く現れたのが佐藤可士和でした。
ステップワゴンとか、ブラピのインテグラとか、本当にカッコ良かった。
私とほぼ同世代の、スター的グラフィックデザイナーでした。
その後、
SMAP
TSUTAYA
UNIQLO
Seven Eleven
GU
と、誰もが見たことのあるビッグクライアントのアートディレクションを担当。
さすがに最近はちょっとクオリティが落ちていますが、まだまだ現役N0.1のAD(アートディレクター)です。
いまのグラフィックデザイナーは、佐藤可士和に憧れて広告業界に入ってきた人たちがほとんど。
大貫卓也に憧れていたデザイナーたちは、みんなオジさんになってしまいました。
大貫卓也、佐藤可士和、その遺伝子を継ぐのは佐野研二郎のはずだったのですが、パクリで退場。
佐藤可士和以降のADは不在状態です。
佐藤可士和を目指すグラフィックデザイナーたちへ。
どうやったら佐藤可士和になれるのか。
同じ世代で、数百人のグラフィック・デザイナーと一緒に仕事をしてきたクリエイティブディレクター/コピーライターから、リアルな現実をお伝えしたいと思います。
Contents
佐藤可士和になるための5つのステップ
ステップ 1 美大を卒業する
大貫卓也も佐藤可士和も佐野研二郎も多摩美です。
大手広告代理店勤務のグラフィックデザイナーはもちろん、大手広告代理店の下請けの大手広告プロダクションのグラフィックデザイナーまで、ほとんどが美大を出ています。
ハッキリいいます。
専門卒は佐藤可士和になれません。
私はクリエイティブ・ディレクターとして、コピーライターとして、多くの多摩美や武蔵美卒のグラフィック・デザイナーと仕事をしてきました。
中には使えない人も大勢いましたが、それでも専門卒との能力の差は歴然です。
美大に入れる人は、そもそも高い美術の才能を持っています。
デッサンひとつとっても、努力だけでは埋められない、生まれ持った目が必要です。
お世話になったADは、物心つくかつかないかの頃から、パースを付けて絵を描いていたそうです。
努力すればなんとかなる、という反論もあるかも知れませんが、だとしたらそもそも美大に入れていないのはスタート地点で努力を怠っているわけで、その時点でグラフィックデザイナーの上を目指すのは不可能です。
それ以外の道としてひとつだけ、高卒でライトパブリシティに入るという方法があります。
ライパブでは、美大の4年がもったいないので、高卒の時点で採用し、金の卵としてじっくりと育てているそうです。
それでも半人前になるまで下積み10年。
グラフィックデザイナーって、そんな職業なのです。
とはいうものの、美大生にとってグラフィックデザイナーは、それほど魅力的な職業ではありません。
昨年新卒採用で武蔵美の就職説明会に行ったのですが、みんな映像をやりたがっていて、グラフィックデザイナーが第一志望の学生なんて一人もいませんでした。
ステップ 2 なんとしてでも電通・博報堂に入社する
美大でグラフィックデザイナーになりたい学生は少ないとはいっても、電通・博報堂に就職するとなると、話は別です。
美大を出ても、そう簡単に入れる会社ではありません。
新卒では入れなかったとしても、電通・博報堂の仕事をやっている広告プロダクションに入って、少しでも早く、なんとしてでも、早期中途採用を狙うこと。
一流になるためには、一流の人たちの中で、一流の仕事をこなしていかなければいけません。
そして、残念ながら一流の仕事は、電通・博報堂にしかありません。
どんなに優秀なクリエイターでも、電通・博報堂に入らなければ一流になれないのが現実なのです。
ステップ 3 一流の環境でひたすら修行を積む
ステップ1・2の時点で「そんなのムリだよ」と思う人がほとんどだと思いますが、電通・博報堂で仕事をしているグラフィックデザイナーは、当然ですがそれをクリアしてきています。
そして彼らは何をしているのかというと、あふれる才能を活かしてクリエイティブな仕事をサクサクとこなしているわけではなく、寝袋を持ち込んで24時間体制で泊まり込み、泥臭いながらも必死に、少しでも良い広告を制作するために、しのぎを削っているのです。
美大から電通・博報堂に入社して、一流のクリエイターの元で寝る間も惜しまずに必死にデザインの仕事をしているグラフィックデザイナー。
美大に入れず専門学校を出て、連日徹夜続きとはいうものの、チラシやリーフレットの仕事ばかりをやっているグラフィックデザイナー。
日ごとに腕の差が開いていくのは目に見えていますよね。
博報堂系の広告プロダクションに勤めていた頃、私の隣に座っていたデザイナーが、2週間博報堂に出向することになりました。
ボロボロになって戻ってきたので、なにをしていたのか聞いたら、ADの指示でレイアウトを何百案も作っていたそうです。
コピーやビジュアルといった構成要素は確定しているので、それをどうレイアウトするのかを検証するために、縦組文字と横組文字のレイアウトのバリエーションを100案くらい制作。
それを壁に貼りだして、縦組みはなしになったので、今度は横組で100案作成。
という作業をずっと繰り返していたそうです。
大貫卓也にしろ佐藤可士和にしろ、1つの広告を作るのに、何百案もラフを作っています。
そこまでの作業をやっている、一流のグラフィックデザイナーの後ろ姿を見なければ、絶対に一流にはなれません。
ステップ4 力を持った優秀な人と出会う
電通・博報堂で仕事をしているからといって、誰もが優秀なわけではありません。
ある程度のスキルをクリアしたら、あとは人脈。どれだけ優れた人に出会えるか。
佐野研二郎だって、ADとしての腕はたいしたことはないけれど、佐藤可士和に取り入ったからあのポジションまで行けたわけで、才能以上のデザインを求められたからパクっちゃっただけ。
さらに上を目指すには、才能と努力+人脈が絶対に必要です。
ステップ5 プロデューサーを得る
最終的に独立して事務所を持つわけですが、グラフィックデザイナーは職人です。ビジネスマンではありません。価格交渉をしながらクリエイティブな仕事をするのはムリ。
値切られたとしてもクオリティは落とせないわけで、予算とこだわりの板挟みで、仕事のバランスが取れなくなります。
また1つの仕事をやっている間は営業活動ができません。そうなると、次の仕事が取れない。
フリーのデザイナーは、結構これで苦労しています。
なので、クリエイティブとは別にプロデューサーが必要になってきます。
佐藤可士和の場合、奥さんが博報堂の営業だったわけで、信頼できるマネージメント&プロデュースのプロがいるということが大きな強み。
映画、音楽、演劇、美術…クリエイティブな世界には、一方でお金と仕事をコントロールするプロデューサーが不可欠。
キャリアを通じて、そんなパートナーを見つける必要があります。
まとめ
もうひとつ忘れていました。
大貫卓也のLaforet。
佐藤可士和のUNIQLO。
強力なレギュラークライアントを持つこと。
美大から電通・博報堂で下積みの後、コネと名声を得て、プロデューサーと共に独立し、ビッグクライアントの信頼を得る。
そんなのムリですよね。
安心してください。
佐藤可士和以降、20年以上にわたって、そんなデザイナーは一人もでてきていないのが現実です。
佐藤可士和を目指す以前に、グラフィックデザイナーとして、アートディレクターとして、この先、広告業界で生きていくことが難しいと感じているグラフィックデザイナー、アートディレクターのあなたへ。
佐藤可士和にならなくても、広告デザインで生きていく方法はあります。
私もまだまだあと30年、クリエイティブディレクターとして現役で仕事をしていこうと思っているので、デザイナーが減ってしまうととても困ります。
ぜひ一緒に、同じ広告業界で生き残りを図っていきましょう!
Comment
日本には素晴らしいデザイナーが多数いますが、必ずしも美大、電通、博報堂の出身ではありません。
あの梅原真さんも当てはまりません。
デザイナーの方々と多く話をしますが、佐藤可士和に対しては、デザインセンスを皆疑っています。
同じ佐藤でも、どーして佐藤卓とこんなに違うのかと笑い話になる始末です。
だいたい、今時オワコンの佐藤可士和を目指す学生がいくらいるでしょう。
何百案も出して作り上げたものがGUのロゴだとしたら滑稽ですよね。
GUのロゴのコンセプトがUNIQLOの妹分でしたよね。
一度、佐藤可士和には色弱テストを受けさせるべきでは。
彼のHPひどいし。
広告自体がオワコンw