頭山満の懐刀と呼ばれた男の記憶。今こそ日本を中心とした世界観を持とう。

今から20年前、30歳の時。社員旅行で行った台湾でのこと。

「台湾で有名な日本人と言えば頭山満です」

空港からホテルまでのバスで、ガイドをしてくれていた40歳くらいの男性の添乗員が、流ちょうな日本語で、台湾がどれほど親日かという話をしてくれていた中で放ったひとことです。
日本で30年以上暮らしてきて、親戚以外の誰からも聞いたことのなかった名前を、日本人の代表のように語ってくれたのは、日本人ではなく台湾の方でした。
バスの中で一緒に聞いていた同僚は誰一人、頭山満という名前を知りません。

ホテルについてバスを降りるとき、添乗員の人に、「どうして頭山満なんですか」と訪ねてみました。

「国家の父、孫文を守ってくれた人だから。私ぐらいの年齢の人は、みんな学校で教わっていますよ。」

台湾人に親日が多い理由がわかりました。

そして私の祖父は、そんな頭山満の懐刀として、日本の歴史のほんの片隅に関わっていました。

 

頭山満とは何者なのか。

1878年(明治11年)、板垣退助に諭されて自由民権運動に目覚め、1881年(明治14年)、西郷隆盛の意志を継いで玄洋社という政治団体を設立。「不平等条約の改正」に取り組みます。その後、不平等条約改正反対運動のリーダーとなるも、政党の利益のためだけに策を巡らせる政治に失望。その目をアジアに向けることに。日清戦争の後、二度にわたって日本に亡命してきた孫文の面倒を見たり、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースを援助したり、フィリピン、ベトナム、エチオピアの独立支援なども行っています。

開国から戦前の日本において、少なからず影響力を持ち、歴史に足跡を残したサムライ。

アジア主義者の巨頭、玄洋社の総帥、右翼の親玉。

様々な呼び名がありますが、少ないながらも資料をひもとけばとくほど、どれもまったく的を射ていないよう。

明治時代に、ある雑誌社で現代日本一の人物の国民投票を行ったとき、政治家は大隈重信、学者は三宅雪嶺、実業家は渋沢栄一、力士は常陸山、頭山満は日本一の豪傑として1位に選ばれたそうです。

そのくらい人気があった人物のことを、なぜ今の日本人は誰一人知らないのでしょうか。

幕末から戦前の日本の歴史は、すべてGHQに塗り替えられています。その際に、頭山満は歴史から抹殺されてしまったのです。
戦後教育を受けてきた私にとって、頭山満は右翼の親玉。
日本を軍国主義へと導き、戦争をけしかけた戦犯の一人としか思っていませんでした。

実際には、欧米の植民地政策から日本、そしてアジアを守るために戦っていたのです。

大義を持って活動していた頭山満の存在は、欧米諸国にとって都合の悪いものでしかありませんでした。

 

頭山満の懐刀と呼ばれていた祖父の記憶の断片。

佐藤庄太郎、1888(明治21)年12月6日生まれ。1963(昭和38)年9月26日、74歳にて没。
1967年生まれの私は、生前の祖父を知りませんが、その姿は祖母の家にあった写真と石膏の胸像で、小さい頃から見ていました。頭山満のように、白くて長い顎髭をたくわえていました。

祖父は50歳の時に29歳だった祖母と出会い結婚します。

祖母は16歳の時に、神奈川県で2人しか受からなかった書道の師範の試験に受かります。その後、生涯を書家として生き抜きました。

では、祖父は50歳まで何をしていたのか。

懐刀と呼ばれていたのは、表に出ることなく、裏舞台で活動していたから。頭山満に関する資料の中に、祖父の名前はまったく出てきません。
それでも、頭山満と一緒に写っている写真を、小さい頃から祖母によく見せてもらっていました。
その写真は父が持っていたのですが、父が亡くなったときにどこかへ行ってしまいました。

父も祖母もあまり詳しくは知らなかったようですが、いくつか私に話してくれたこと、そして祖父の弟子だったという人から聞いた話を、記憶を辿りつつ、憶測を交えながら記したいと思います。

 

祖父の出自は千葉県野田市梅郷。先祖をたどると岸和田藩岡部氏の家来にたどり着きます。その梅郷で、祖父は教師をしていました。
当時、まだまだ根強く残る江戸時代の身分制度による差別の中、被差別部落出身の子供を学校に通わせるために身を呈していたとのことです。それが頭山満の目にとまって東京に呼び出されたのが、ことのはじまりだったようです。

二・二六事件の時の極秘資料を預かったり、孫文が日本に亡命していたときに、面倒を見ていたのも祖父だったと聞いています。祖父の年齢を考えると、1913年〜1916年、2度目の亡命の時がそれにあたると思います。

禅月舎という寺子屋のような宗教のような団体を持っていて、何人かのお弟子さんを抱えていました。
ただし教えがあまりにも浮き世離れしていて、それを信じたお弟子さんは、みんな身を持ち崩したそうです。父から聞いた話ですが、電車に乗るときにお金の使い方がわからず、「必要なだけ取ってくれ」と言って駅員に持っている硬貨を差し出したそうです。

祖父は50歳の時に出家することになっていました。桂太郎の愛妾だった芸妓の「お鯉」さんが、頭山満のすすめで目黒・羅漢寺の尼僧として出家することになり、同じ寺に入って、頭を丸めるはずだったそうです。ところが書家をしていた祖母と出会って結婚に至り、出家の道を断念することになります。

花押という、署名の代わりに使用される記号があります。祖父の花押は、悟りを開いた人だけが使える様式だったそうです。

漢文(古事記)の研究をしていて、日本が戦争に勝ったら文部大臣だったのにと、祖母から子供の頃によく聞かされていましたが、これっぽっちも日本史の中に出て来ないのに、さすがにそれはないだろうと思っていました。

大日本愛国党をつくった赤尾敏が若かりし頃、弟子にして欲しいと何度も訪ねてきたそうです。
祖母はその度に門前払いしたそうです。品がないから大嫌いだったといっていました。

敗戦後、病気のためにA級戦犯を逃れたといっていました。

 

祖父、再発見。

祖母と父と父のお弟子さんだった人から聞いた、祖父の話はたったこれだけ。証拠は頭山満と写っている集合写真だけ。
自分のルーツを探ろうにもあまりにも断片過ぎることと、「右翼の親玉の懐刀」「A級戦犯」という言葉が放つ、あまりにもネガティブなパワーに、戦後教育を受けた私は、ずっと祖父のことが大嫌いでした。
ようやく最近、それがアメリカの洗脳だったということがわかり、歴史の正しい姿を少しずつ知るにつれ、祖父の時代の男たちの生き様の凄さというものを感じるようになってきました。

私利私欲、党利党略に明け暮れている今の政治家たちの卑しさに比べたら、頭山満を筆頭とする国士たちは、どれだけ清々しく、国のために命をかけていたか。

詳しくはこちらを読んでみてください。

 

ひとつだけ、祖父のことを調べることができる情報として、大政翼賛会横浜支部長をやっていたという話を、祖父のお弟子さんだった方から聞いたことがあります。

50歳を迎えた今年、9月のこと。もう一度自分を見つめ直すきっかけとして、横浜中央図書館へ祖父の実像を探しに行くことに
そこで大政翼賛会の資料を探してみると、「大政翼賛会神奈川県各支部役員名簿」を発見。
皇紀2601(西暦1941)年6月発行。祖父は53歳。父は6月生まれだったので、ちょうど1歳の時の名簿です。

最初のページをめくってみます。
すると8人目、常務委員として、祖父の名前を見つけることができました。

肩書きは社会教育家。

次のページには、大日本報徳社副社長の佐々井 信太郎や小泉純一郎の祖父・小泉又次郎、河野太郎の祖父・河野一郎も名を連ねています。

祖父は歴史の一ページに、ちゃんと名前を刻んでいました。

 

五十にして天命を知る。

グローバル化なんて、単なる欧米化。
日本語もまともに使いこなせないのに英語オンリーの会社なんて、アメリカの拝金主義・合理主義に毒されているだけ。
影響力の割に、文化もなにも生み出せないのは、単なる金儲けのシステムを生み出しているだけだから。

コピーライターだって、かつてはアメリカの影響を受けながらも、日本語としての表現を磨き上げてきていました。
今ではすっかり、バカを騙して物売りするための煽り言葉を連ねた、下品なセールストークを生むばかり。

集団的自衛権の行使をどうこういう前に、戦後70年かけて、心までアメリカに占領されてしまった日本。

頭山満や祖父を歴史から消し去ったアメリカの呪縛から解き放たれて、もっと日本人らしさを磨いていかなければ。

 

頭山満のサイト

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